

Gansインタビュー第6回
土橋宏由樹〜松本の王様『ドッティ』〜
松本の王様『ドッティ』がASP事務局にやってきた。第6回ガンズインタビュー開始です。
――サッカーをはじめたキッカケは?
小学1年生の時、3年生の兄の試合を見に行って、選手、監督と昼食を食べていたら、監督が「俺と飯を食べたらサッカー部に入らないとダメだぞ」と言われ、その場でユニホームを着て、もう試合に出てました。(笑)
――どんな少年でしたか?
当時から今に至るまでガキ大将(笑)とにかくサッカー小僧で兄といつもボールをけってました。
――小さい頃の将来の夢は?
幼稚園の卒園アルバムに「サッカー選手」と書いてあったが、当時は野球好きでジャイアンツでプレーするのが夢だった。自分がプロサッカー選手になって卒園アルバムを見て
びっくりした。(笑)
――中学生時代は?
部活とクラブチームの掛け持ちでサッカー漬けの毎日でしたけど、この3年間が今の自分のサッカー選手としての支えになっている。部活は監督から「すべておまえがやれ」と言われ、キャプテンと監督の仕事をやりました。県でトップのチームだったから個性的な選手が多くまとめるのも大変だったし、練習メニューも考えながらやっていたので苦労の毎日でした。部活とは違いクラブチームは現セレッソ監督塚田先生との出会いがサッカー観を変えました。テクニック、戦術、サッカーに必要なすべてを教えてもらえた。とにかく小、中はサッカーが本当に楽しくてたまらない毎日を送っていました。
――高校時代は?
サッカーが楽しい毎日であったはずが、どの時でも兄との比較で悩んでいる時期でもあり、兄と別の高校に進学を決意しました。高校3年の時、ブラジル遠征に行って、帰ってきたら病気になり入院。最後の年は、ほぼ棒にふりました。冬の選手権には出場しつつも決勝で負け、高校生活は終わってしまいました・・・。入院中も引退した後も、ただただ「サッカーがしたい」この思いはデカくなるばかりでした。
――海外留学としてドイツを選んだ理由は?
当時、僕らの年代は「ブラジル」がすべてみたいな感じでしたが、足元の技術には多少自信があったので(笑)自分はヨーロッパを選び、そして、ドイツを選びました。18歳で海外留学は正直辛かった。最初は見るものすべてがはじめてで、新鮮ではありましたが、3ヶ月ぐらいするとホームシックになり、辛かった。サッカーに関しても強豪ブレーメンで、日本人は相手にもしてくれなかった。よくカズさんが言っていた「日本人=サッカー下手」は高校時代にはそんな事はないと思ってましたが、現実は予想もしない程だった。当時のチームメイトには現ドイツ代表のボロウスキーや有名な選手もいてパスもこないし、ほとんど相手にもしてもらえなかった。しかし「サッカーがうまくなりたい」この気持ちだけが自分の支えであり、とにかく頑張った。次第に試合に出て得点をしていくうちにチームメイトから初めて評価を受け始めた。それから2年間ブレーメンでの生活を送ったがビザの関係でサッカーができない環境になり、悩んでいた時に、当時ヴァンフォーレ監督をしていた塚田先生からのオファーの話があった。Jリーグでサッカーをしたかった自分にとってはチャンスだと思いました。
――ヴァンフォーレ時代は?
J2開幕の年、兄弟で同じプロチームでサッカーをしました。しかしチームは3年連続最下位、26連敗を経験した。チーム解散になる可能性も出てきて、またドイツというサッカー環境が抜群のところとはあまりにもギャップがありました。そして自分は膝の手術で1年間棒にふった時もありました。でも選手みずからイベント、ポスター張り、ティッシュ配り、チームのために全力でなんでもやりましたね。一番身についたのは「忍耐力」ですね(笑)
でもそんな苦労からJ2最下位のチームがJ1昇格へと昇りつめた。

――松本山雅に来た理由は?
プロ生活7年間純粋に「サッカーが楽しい」と思える時が正直なかった。そしてもう2度とサッカーを楽しむ事はないだろうと思っていた。あの子供時代のようにサッカーが・・・。サッカー選手として引退を考えました。しかしサッカーをしたくてもできない人、自分を応援してくれるファン、そして何よりも、自分が何をするにも何も言わず黙って見守ってくれた、そして一番応援してくれている両親。自分は多くの人たちの支えがあり、そしてなによりあの子供時代のサッカーが楽しくてしょうがなかったあの気持ち。もう一度「サッカーを楽しみたい」との思いがあり、いくつかのオファーの中から松本山雅を選びました。自分を一番必要としてくれていることを自分の心で感じとれたからこそ、ココで、このチームで『サッカーをしたい』と思いました。
――松本山雅に来てシーズンを振り返って?
本当にサッカーを純粋にサッカーを楽しむ事ができた。今まで自分が失っていた、なくしていた大切なものを取り戻せました。そしてスタッフ、サポーター、選手、松本すべてにおいて感謝の心で一杯です。とても魅力あるチーム。本当にすべてがファミリーですね。このファミリー観がなんとも言えずいいですね。
――サポーターに一言
チームがどんなに辛い時でも温かく応援してくれた。自分が退場になってもコールをかけてくれるサポーターに心うたれました。このチームでサッカーできた事に感謝であり、幸せであり、誇りです。このサポーターは外のどこに出しても全く恥ずかしくない。これはJ経験者が言ってるので信じてください(笑)自信をもってチームと共に進んでくれ!

背番号7 土橋宏由樹と話して。
天皇杯県予選の決勝戦、円陣を組んだ時、土橋は言った。
「このチームで戦うのはこれが最後じゃない。まだまだこのチームで俺は戦いたい」
天皇杯2回戦 VS 新日鉄大分。土橋は出場停止。おしくも敗戦。
その時、土橋は小学生以来の涙があふれた。
ヴァンフォーレ時代、J2最下位からJ1昇格へと昇りつめたこの経験は、おそらくJの選手でもいないであろう。その選手が涙を流した。
あの子供時代、サッカーが楽しくてしょうがなかったあの気持ちが、失っていたあの気持ちが涙としてあふれたのだろう。また土橋はこう言った。まさか自分がここまでチームに愛情が、感情が入っているとは思わなかった。だから退場になった時、本気で怒った。だから試合に負けた時、泣いた。一番自分が信じられないが、このチームが、松本山雅が大好きになった。
正直土橋のようにJを経験した選手は地域リーグで本気にはならないだろうと私は思っていた。しかし、これ程までに松本山雅を愛していたのかと知った時、私もなんだか泣きそうになった。
インタビューが終わり、最後にこう言い残して帰っていった。
「まあ俺が天皇杯2回戦出ていたら勝った!」
あ?やっぱり王様だと確認した。
(文責:成田偉作)

土橋 宏由樹(DOBASHI HIROYUKI)
山梨県甲府市出身 1977年11月27日生まれ 28歳
MF 背番号7 180cm/66kg O型 右利き
韮崎工業高→ヴェアダーブレーメン(ドイツ)→ヴァンフォーレ甲府→松本山雅FC(2006年-)