

Gansインタビュー第8回
中村隼人〜松本の閃光〜
[閃光(せんこう):瞬間的に強烈な光を放つ]
「お疲れ様でーす!」松本の閃光がASP事務局にやってきた。第8回GANSインタビュー開始です。
* サッカーを始めたキッカケは?父親が野球大好き人間でしたが、なぜか僕にサッカーボールを買ってくれて、なぜかサッカーボールと遊びながらサッカーをしていました。(笑)
* どんな少年でしたか?とにかく、よく動いていました(笑)。止まる事がわからないくらいに元気でした。
自分のアピールポイント「スタミナ最強」はここからもう始まっていました。
いろいろな人が「おとなしい」と言うけど、自分は感情をうまく表現できないけど、僕の中には「内に熱いもの」があるんです!
* 小さいころの夢は?「大工屋さん」
物を作るのが大好きでした。
あっ、あと絵を書くのも大好きですし、かなりうまいですよ、僕の絵!
* サッカー王国 静岡での小、中、高時代小学2年生から、サッカーを始めました。
とにかく静岡では「サッカー=遊び」って感じで毎日が楽しい遊びでした。
とにかく、ひたすらボールを蹴っていましたね?。
中学生の頃、本格的にサッカーの<プロ>を意識しました。それは3年生の時に静岡県選抜に選ばれまして、当時は、現代表の鈴木啓太選手やJリーグで活躍している選手がたくさんいました。ここで初めて自分のサッカーが通用しないと実感しました。
でもここからある意味、サッカーへのプライドを持ちはじめます。
またある時、県選抜でオランダの名門「アヤックス」へ遠征に行きました。技術的にはそんなに差はなかったですが、「身体能力」はすごいものがありました。それよりも何かサッカーに対する強い気持ち、チームへの誇り、サッカーに対する「熱いもの」が全然違いました。今、振り返って思い出すと何か大切なものを学んだと思います。
高校はサッカーの特待生で藤枝明誠高校に入学しました。
「自分を必要としてくれている」と感じ、この高校に決めました。
サッカー王国静岡だけあって強豪ばかりでしたが、新人戦優勝、選手権県予選ベスト8とまずまずの成績を収めることができました。
この中学、高校生時代に今の自分のサッカースタイル的なものを作れたと思います。
* 大学時代大学は静岡産業大学。当時静岡では一番強く、自分のこれからのサッカー人生にプラスだと思い、この大学に決めました。
4年間JFLでプレーができた事はすごくプラスでした。また日本代表、Jのチームとの試合も数多くあり本当にいい経験でした。1、2年生の時は試合にも出られて、それなりに点もとれていたし、満足いく結果でした。ところが3、4年生になると、Bチームへ落とされ、なかなか試合にも出られずに何か、だんだんとサッカーへ対する気持ちが薄れていく自分がいました。すごく「くやしい気持ち」もありましたが、なぜだか自分でもわかりませんが、サッカーへの情熱がだんだんと冷めてきて、次の人生も考えていた時期でもありました。
* 佐川急便中京へ就職一応サッカー推薦で就職しました。一日仕事をして週2回サッカーという生活で、いわゆる「サラリーマン」でした。だからとくに「サッカー選手」という生活ではありませんでした。ある時、県リーグの試合があり、自分のアピールポイントである「スタミナ」や、まったく自分のサッカーができなくて、くやしくてたまりませんでした。
たまたま両親がその試合を見て父親から一言、
「隼人、今まで見た全ての試合の中で一番最悪だったな」
自分では、ろくに練習もせず、このような生活で「サッカー」を仕事のせいにしている自分がいました。悔しくて泣きました。
「本気でサッカーがしたい!」
小、中、高時代のサッカーが楽しくてしょうがない気持ち、あの時のサッカーへかける情熱がもう一度甦ってきました。それから週2回の練習後も毎日、自主練をかかすことなく本気でサッカーに打ち込み始めます。23歳の夏でした。
* 松本山雅に来た3年間同じ就職先の知人から「松本山雅のセレクションを受けてみたら」と言われ静岡から初めて松本へ来ました。自分でホテルを予約し、夜、一人で松本城へ歩いて行きました。ふと空を見上げたら雪が降ってきました。「あ?松本さみ?」それが松本の第一印象でした。しかし、松本城であの夜空を見た事は今も鮮明に残っています。
なんか不思議な感覚でした。
セレクション当日の朝、特に緊張はなかったけれど、合格できました。
「松本山雅はこれから上を目指す」その気持ちが自分の志と同じであり、この松本山雅で一緒に上を目指したい、と思い入団を決めました。
僕は今年で松本山雅に入団して3年目になります。今は選手、スタッフ、サポーター、ファン全てが団結しJFL目指してみんなで盛り上がっています。
しかし1年目はそうではありませんでした。ある意味チーム内でもサッカーに対する「意識の差」とかがあり大変な時期でありました。でもそんな状況でも同じ志を持つ仲間と北信越1部昇格を目指し、みんな一つになってがんばっていました。しかし、2年目では同じ仲間が辞めたり解雇になったりと、上を目指すサッカー選手として初めての経験をしました。
でもこの2年間がなければ今の山雅はありません。僕が言うのもなんですが同じ志を持って共に戦ってきた山雅の選手、スタッフ、の見えない努力があったからこそ今の山雅はあると思います。
* オレの気持ち今はとにかく試合に出たいです!
口ではうまく言えないですけど、なんか納得できないんです。
この3年間で北信越2部から1部昇格。そして1部優勝と結果が出ているので、うれしい気持ちはあります。だけど正直素直に喜べない自分がいます。
8月の全社の決勝vsJAPANサッカーカレッジ戦でダメ押しゴールを決めた時の1点はただの1点ではなかった。正直本当に今までがすごくきつかったし、辛かった。自分なりには、頑張ってきたつもりだったから、あの1点につながったのかもしれない。
だけど、自分として、それはただの通過点にすぎない。
プロになったわけではなく、結果を出したわけでもないですから。
だから自分はただ、ただ上を目指すだけなんです。
やっぱり自分はサッカーが大好きだし、サッカーしかないから。
だからこそ自分がすごく、くやしいんです。
でも試合に出ている選手が一番努力しているんだ。評価は試合に出てなんぼですから。
だから僕は人の何倍も努力してもっと、もっと練習しないと。
自分の持ち味は、「泥臭くてもいい、人よりもたくさん走ってチームに貢献する。」
もう、腐っている場合ではないんです!!
妥協せず、自分に負けず、この3年間全てをぶつけます!!
また今まで共に戦ってきた友のために、今山雅で活かされている自分が、結果を残す為にいるから、どんな状況でも、たとえケガをしても足を折っても、結果にこだわって戦いたい。今自分がこの山雅でサッカーができるのは多くの支えがあるからです。
家族、友人、そしてスタッフ、自分をこの3年間支えてくださっている方々の為にも
戦います。僕は絶対に腐りません。折れません。そんな自分の姿を見てください。
* サポーターに一言今までのサッカー人生の中で一番熱いサポーターです。
なかなか試合にでれない自分にも全力で応援してくださり本当にありがとうございます。サポーターのこの3年間の陰の仕事があったからこそ今の山雅があります。
当時のティッシュ配り、ポスター張りは大変でしたよね?
まだだれも松本山雅を知らず、なかなかうまくいきませんでしたよね?
そんな時から「松本山雅」を応援してくださっているサポーターは本当に
「誇り」です。これからも熱い応援お願い致します。
どれだけ本当に励まされているか。感謝で一杯です。
背番号19 中村選手と話して
言葉ではうまく表現できないが「内に秘めた熱いハート」。
これがガンズインタビューをしながら受けた中村選手の率直な感想です。
3年目のシーズン。チームで小沢選手と共に一番の古株。中村選手の熱いハートに私はすごく感じるものがあった。なかなか試合に出られないくやしさ。もどかしさ。
しかし、決して腐らず、折れず、ありのままに、ただ上だけを見上げて向上している、中村選手。
私は中村選手と対談していくうちに「初心に戻ろう」と思った。
たしかに、今の山雅には勢いがあります。選手、スタッフ、サポーター、全ての人たちが団結し「JFL昇格」を目指し、がんばっています。
しかし、今、この時だからこそ、もう一度初心に立ち返って、原点に立ち返って新しい気持ちになって戦っていきたい。
ガンズインタビューをする前に中村選手がこう言いました。
「成田さん、おれの全てをぶつけます。どんなに不細工でもかまいません。人がどう思おうが構いません。今のおれの全てを、この3年間を知ってもらいたいんです」と。
「何か忘れていた一番大切な物」を教えてもらった。
そんなガンズインタビューであった。
3年前、初めて松本の地でみた、あの夜空は今の中村選手にどう映っているのだろう。
(文責:成田偉作)

背番号 19
中村 隼人(Hayato Nakamura)
1981年4月8日生まれ(26歳)
MF 19/身長170cm・60kg/A型/右利き
藤枝明誠→静岡産業大学→佐川急便中京→松本山雅