
Gansインタビュー第9回
小澤修一〜松本のスマイル〜
「お疲れ様で〜す!」新婚ホヤホヤの松本のスマイルがASP事務局にやってきた。第9回GANSインタビュー開始です。
* まず結婚おめでとうございます!!新婚生活を一言で言うと?責任感!! もう自分ひとりではないですからね。まあ〜幸せですよ〜(笑)
* サッカーを始めたキッカケは?父がサッカーの名門 藤枝東で。あっサッカー部ではないですけど(笑)
とにかく父はサッカーが大好きで当時の日本リーグの試合とか、たくさんの試合を
見に行ってました。そんな父の影響で気がついたらボールを蹴っていた、そんな感じですかね。
* どんな少年でしたか?食べることがキライな少年でした(笑)
給食の時間なんか一番キライでしたね。
メシ食べるなら遊んでた方が良いというか・・・食に興味がないというか・・・
基本的に面倒くさがり屋なんです。今でも変わっていないですが(笑)
あと小さい頃から何でも「できる子」でした!!
野球やピアノもやっていましたが先生から「この子はすごい才能あるかも」と言われるくらいでした。ただ何事も飽きやすく続きませんでした。ピアノなんかはすぐ妹に抜かれていました。
「できる子」でなく「熱しやすく冷めやすい子」って感じですかね。
そんな中、唯一続いたのがサッカーでした。そして今があるって感じですね。
* 小さいころの夢は?アニメの「ミニ四駆ダッシュ四駆朗の運転手」か「プロ野球選手」
この2つの夢にかなり悩んでいました(笑)
*小、中、高時代は?小学生から、本格的にサッカーを始めました。
コーチが自分の父でしたから。
小さい頃はなんでも「できる子」だったんですが、サッカーだけがパッとしませんでしたね。(笑)でもとにかくサッカーは大好きでした。
中学生になっても相変わらずサッカーはパッとしませんでしたが、中学2年でいきなり足が速くなりました。小学6年生で50m9秒台が6秒台になってそこからサッカーの世界がガラっと変わりました。
そしてある友達との出会いが自分のサッカー観を変えました。その友達はサッカーがうまくなりたいという強い思いから、中学を卒業したらブラジルに行くことを決めていました。自分も今までは「サッカーが楽しくて好き」だけだったのが友達との出会いで「サッカーが上手くなりたい」と向上心が芽生えたと思います。ちょうどJリーグも開幕し、プロになりたいと意識し始めた頃でした。
それからは、その友達と2人でひたすら練習に明け暮れていました。
高校は神奈川の旭高校が全国大会ベスト8に入っていたのをテレビで見ていて、この高校に行きたいと思い公立校ではあったけど勉強も頑張って無事合格し入学できました。しかし、いざ入ってみるとテレビで見ていたイメージとはかなり違いました。
上下関係は厳しいし、1年生は坊主だし、ボールは使えないし、名前が入ったTシャツを着ないといけないし、練習中の声が小さいとあとから先輩の気合(笑)があったりと、かなりキツイ日々で、いきなり「辞めたい」と思いましたね。ただ自分が選んだ道だから「ここで負けるわけにはいかない。」と自分自身に言い聞かせてなんとか頑張る事が出来ました。この3年間で「根性」というものは身に着いたと思います。
しかし結果を出すことができずに、高校3年間では一度も全国大会には出場できませんでした。
プロを目指していたのが少しずつ違う道を考え始めた時でもありました。
大学時代は本格的な体育会ではなく同好会的な感じでサッカーをしていました。
沢山の気の合う仲間と出会い本当に毎日が楽しい日々を送っていました。
しかし、何か心のどこかで「自分がどこまで出来るのか挑戦してみたい。」そんな気持ちがあったと思います。
大学3年になり色々な進路を考えていましたが悩みに悩んで両親に相談をしました。そしたら「本当に自分がやりたい事をしたら? ただ何をするにも後悔しない為に中途半端だけはやめなさい。」
相談する度にいつもこの言葉だけが返ってきました。自分からサッカーをとったら何も残らない。
そして何よりも自分はサッカーが大好きだ。今ここで挑戦しなかったらきっと一生後悔する。ここで後悔だけは絶対したくない。ようやく本当の「やりたい事」に挑戦する決心がつきました。
それからは就職活動を一切せずサッカーの練習やセレクションにひたすら参加しました。しかし実際に決心した物の、先が見えない、何の保障もない、ひたすら不安な毎日。この時期が本当にきつかった・・・
しかし、頑張った結果、大学4年生の2月、晴れて静岡FCへ入団が決まりサッカー選手として新しい出発をしました。
よく、大学生活で本格的にサッカーをやっていたら、もっと上にいけたんじゃない? 後悔してないの? と聞かれることがあります。
もしかしたらそうかもしれません。
ただ、この4年間という時間で沢山の仲間と出会い、一緒にサッカーが出来たことで心からサッカーが大好きな自分に気づくことが出来た。本当の自分に出会えた!
だからこそ、こうして今、サッカーに一所懸命になれる自分がいるんだと思っています。
だから自分の選んだ人生を後悔したことは一度もありませんね。
*静岡FC時代は?新しい出発をしましたが「うれしい」というよりは正直「不安」のほうが大きかったですね。今までの人生でサッカーが上手な人とは出会いましたが、当時の静岡FCのほとんどの選手が、元Jリーガーばかりで自分との差に愕然としました。当然最初はベンチにすら入れません。みんなは午前練習、午後フリーでしたが、試合に出られない自分はひたすら毎日午前練習、午後自主練習の繰り返しでした。お金もなく生活も苦しかったので午後は働くことも考えたけど、ここで中途半端にやると結局、前には進めない。
だからサッカーだけに集中しようと思って。また寮生活でしたが5LDKに15人、6畳1部屋3人という環境での生活をしていました。布団をひいて荷物置いたらもう足の踏み場がない感じで。(笑)金もない、サッカーもうまく行かない。
だけどそんな時いつも自分を支えた言葉は両親の「中途半端はダメ」でした。
そして「本当にやりたい事」を見つけて挑戦しているんだから「負けたくない」。
しかし現実では足元の技術だけは認めてもらえても、走れない、当りは弱い、自分は早くみんなに追いつかないと。それだけを考えて無我夢中で走っていました。そんな中、少しずつですけど認めてもらえるようになり、試合にも出られるようになってきました。そしてシーズン途中からは気がつくとレギュラーになっていました。
全く肩書きのなかったこんな自分を、当時のピッコリ監督(元アビスパ福岡)は拾ってくれて試合に使ってくれました。元Jとか肩書きに関係なく自分を認めてもらい本当に感謝でした。この世界で初めて認められたような気がして本当に嬉しかったです。
2年連続、地域決勝に出場しましたが残念ながらあと一歩でJFLには昇格できませんでした。
当時、気の合う仲間も沢山いてすごく楽しかったけど自分の中で「環境を変えて自分自身を磨きたい。もっと上のカテゴリーで挑戦したい」と思い自ら静岡FCを退団しました。
*松本山雅に来たキッカケは?実は静岡FCを退団する時にどうしても行きたいチームがありました。そんな時、たまたまチームメイトに「山雅っていうこれから立ち上げるチームのセレクションを一緒に受けない?」と聞かれて体を動かす程度の気持ちで受けたら合格(笑)になってしまいました。
ただ自分は次のチームを決めていましたので最初は山雅に行くつもりもなく断りましたが、当時の八木理事長、辛島監督から何度も電話を頂き、すごく熱心に誘って下さり心打たれ山雅の入団を決めました。
*松本山雅の第一印象は?「あれっ」です(笑) 聞いていた話とは全く違っていました・・・騙された!!と思いましたね。(笑)
静岡FCとは環境、練習、選手の意識いろいろな面で違いましたね。「もっと上へ」と思い自分は山雅に来たつもりがいきなり凹みました。
*松本山雅の5年間を振り返って当時はなかなか試合にも勝てなく、サッカーがあまり楽しくなかった。「サッカー=楽しむ」が自分のモットーだったから毎日のように移籍を考えていました。
でもそれからヤハ、さんちゃん達が来てくれて試合に勝っていくようになり、最初はバラバラだった皆の意識も少しずつ高くなり、まとまりもでてきていいチームになっていきました。
そうしたらファンやサポーターもどんどん増えてきて、だんだん楽しくなってきました。それでこのチームで「上を目指したい」と思うようになったのが1年目でした。それから2年、3年と急激に山雅は変わった。強くなった。みんなから愛されるチームになった。
しかし、その背後にはチームを去っていく選手、スタッフがいました。出会いがあれば別れがある。チームが強くなる為には仕方がない事だけど辛い思いも沢山しました。正直自分は淋しかった。分っていたことだけど。でもこれが自分の目指す「プロの世界」。こんな経験をする度にいつか自分もこのチームを離れる時が来る。そう思うが故にこうして「松本でサッカーができる日々」に感謝ですね。
このチームでサッカーを続けていることが今まで一緒に頑張ってきた仲間への、またこんな自分を応援してきてくれた人達への恩返しになると思っています。何としてもこのチームで上のカテゴリーにいきたい、今は心からそう強く思っています。サッカーを続けていけば場所は違っても、チームは違っても共に汗を流し、共に同じ目標に向かって戦った同志にもグランドで再会できるから。
*今の松本山雅は?気が着くといつのまにかベテランになっていた(笑)
経験は積み重ねていくが体の衰えは少しずつ感じていく。「いつまでサッカーができるだろう?」そんなふうに考える時もあります。
でも、だからこそ毎日を一日を一瞬を大切に「後悔」せず戦って行きたい。自分の夢はあくまでも「プロサッカー選手」だから。そこに辿り着くまでは挑戦していきます!!
今年も吉澤監督、そして新加入選手も合流し、また新しい戦いが始まっています。去年は試合には出場していましたが完全にレギュラーではなかった。
今年はまずレギュラーを目指す。「結果を出す=サッカー」と自分は思っているから。
またここ最近すごく思うことは今までは自分がサッカーをする事が楽しいし、自分の為だけにサッカーをしてきました。しかし今は自分がサッカーをする事でファンやサポーターが喜んで楽しんでもらえる。自分のプレーに一喜一憂してくれる。今まで自分の為だけにプレーしてきたサッカーが少しずつだけど人の為になってきている。なんかそんな大切な事に今になって少しずつ気がついてきました。だからこそまだサッカーをしたい!続けて行きたい!
ようやく芽生えた「プロ意識」ですかね(笑)
*サポーターに一言毎年シーズン・オフになって悩む時があります。どうしよう?と。そんな時、真っ先に浮かぶ顔はサポーターです。応援してもらう。というよりは共に戦う!! 一緒に共に上を目指して頑張る! これが、僕が感じている山雅というこのチームのサポーターです。
だから今年こそ「ラストチャンス!!」
崖っぷちの気持ちで共にJFLへ行きましょう!!
背番号 8 小澤 選手と話して
ガンズインタビューをする前に小澤選手は私にこう言った。
「俺でいいんですか? 僕サッカーのエリートでもないし、有名な選手とか出会ってないし」と。しかしインタビューをしていくにつれて私は思った。
今から5年前、25歳で松本にきた小澤選手。いつのまにかチームで一番の古株になっていた。ここ松本で多くの「経験」をしてきたであろう。そんな修にしか分らない松本山雅がある。修にしか分らないサポーターがある。そして修にしか分らない大切な出会いがあると。たとえ有名な選手と出会ってないかもしれない。でもこの松本で多くの人に出会った。選手、スタッフ、サポーター、職場の人達、そんな人達との出会いが本当の宝物だと思う。
修を知る人たちは皆こう呼ぶ「松本の誇り」と。そして私達も修のスマイル、笑顔にどれだけ希望をもらっているか!!
「中途半端」だけは絶対しない修は必ず山雅にスマイルを与えてくれるだろう!! そして今年こそ、山雅を愛する全ての人達みんなで「スマイル」
GO TO JFL!!
(文責:成田偉作)

背番号 8
小澤 修一(Shuichi Ozawa)
1979年8月29日生まれ(29歳)
MF 8/身長170cm・64kg/B型/右利き
神奈川県立旭高等学校→神奈川大学→静岡FC→松本山雅FC