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コラム : Gansインタビュー第9回〜小澤修一
投稿日時: 2009-3-12 19:00:00

小澤選手のバナー

Gansインタビュー第9回
小澤修一〜松本のスマイル〜



「お疲れ様で〜す!」新婚ホヤホヤの松本のスマイルがASP事務局にやってきた。第9回GANSインタビュー開始です。

* まず結婚おめでとうございます!!新婚生活を一言で言うと?
責任感!! もう自分ひとりではないですからね。まあ〜幸せですよ〜(笑)

* サッカーを始めたキッカケは?
父がサッカーの名門 藤枝東で。あっサッカー部ではないですけど(笑)
とにかく父はサッカーが大好きで当時の日本リーグの試合とか、たくさんの試合を
見に行ってました。そんな父の影響で気がついたらボールを蹴っていた、そんな感じですかね。

小澤選手の写真1
* どんな少年でしたか?
食べることがキライな少年でした(笑)
給食の時間なんか一番キライでしたね。
メシ食べるなら遊んでた方が良いというか・・・食に興味がないというか・・・
基本的に面倒くさがり屋なんです。今でも変わっていないですが(笑)
あと小さい頃から何でも「できる子」でした!!
野球やピアノもやっていましたが先生から「この子はすごい才能あるかも」と言われるくらいでした。ただ何事も飽きやすく続きませんでした。ピアノなんかはすぐ妹に抜かれていました。
「できる子」でなく「熱しやすく冷めやすい子」って感じですかね。
そんな中、唯一続いたのがサッカーでした。そして今があるって感じですね。

* 小さいころの夢は?
アニメの「ミニ四駆ダッシュ四駆朗の運転手」か「プロ野球選手」
この2つの夢にかなり悩んでいました(笑)

*小、中、高時代は?
小学生から、本格的にサッカーを始めました。
コーチが自分の父でしたから。
小さい頃はなんでも「できる子」だったんですが、サッカーだけがパッとしませんでしたね。(笑)でもとにかくサッカーは大好きでした。

中学生になっても相変わらずサッカーはパッとしませんでしたが、中学2年でいきなり足が速くなりました。小学6年生で50m9秒台が6秒台になってそこからサッカーの世界がガラっと変わりました。
そしてある友達との出会いが自分のサッカー観を変えました。その友達はサッカーがうまくなりたいという強い思いから、中学を卒業したらブラジルに行くことを決めていました。自分も今までは「サッカーが楽しくて好き」だけだったのが友達との出会いで「サッカーが上手くなりたい」と向上心が芽生えたと思います。ちょうどJリーグも開幕し、プロになりたいと意識し始めた頃でした。
それからは、その友達と2人でひたすら練習に明け暮れていました。

高校は神奈川の旭高校が全国大会ベスト8に入っていたのをテレビで見ていて、この高校に行きたいと思い公立校ではあったけど勉強も頑張って無事合格し入学できました。しかし、いざ入ってみるとテレビで見ていたイメージとはかなり違いました。
上下関係は厳しいし、1年生は坊主だし、ボールは使えないし、名前が入ったTシャツを着ないといけないし、練習中の声が小さいとあとから先輩の気合(笑)があったりと、かなりキツイ日々で、いきなり「辞めたい」と思いましたね。ただ自分が選んだ道だから「ここで負けるわけにはいかない。」と自分自身に言い聞かせてなんとか頑張る事が出来ました。この3年間で「根性」というものは身に着いたと思います。
しかし結果を出すことができずに、高校3年間では一度も全国大会には出場できませんでした。
プロを目指していたのが少しずつ違う道を考え始めた時でもありました。

大学時代は本格的な体育会ではなく同好会的な感じでサッカーをしていました。
沢山の気の合う仲間と出会い本当に毎日が楽しい日々を送っていました。
しかし、何か心のどこかで「自分がどこまで出来るのか挑戦してみたい。」そんな気持ちがあったと思います。
大学3年になり色々な進路を考えていましたが悩みに悩んで両親に相談をしました。そしたら「本当に自分がやりたい事をしたら? ただ何をするにも後悔しない為に中途半端だけはやめなさい。」
相談する度にいつもこの言葉だけが返ってきました。自分からサッカーをとったら何も残らない。
そして何よりも自分はサッカーが大好きだ。今ここで挑戦しなかったらきっと一生後悔する。ここで後悔だけは絶対したくない。ようやく本当の「やりたい事」に挑戦する決心がつきました。
それからは就職活動を一切せずサッカーの練習やセレクションにひたすら参加しました。しかし実際に決心した物の、先が見えない、何の保障もない、ひたすら不安な毎日。この時期が本当にきつかった・・・
しかし、頑張った結果、大学4年生の2月、晴れて静岡FCへ入団が決まりサッカー選手として新しい出発をしました。

よく、大学生活で本格的にサッカーをやっていたら、もっと上にいけたんじゃない? 後悔してないの? と聞かれることがあります。
もしかしたらそうかもしれません。
ただ、この4年間という時間で沢山の仲間と出会い、一緒にサッカーが出来たことで心からサッカーが大好きな自分に気づくことが出来た。本当の自分に出会えた!
だからこそ、こうして今、サッカーに一所懸命になれる自分がいるんだと思っています。
だから自分の選んだ人生を後悔したことは一度もありませんね。

小澤選手の写真2
*静岡FC時代は?
新しい出発をしましたが「うれしい」というよりは正直「不安」のほうが大きかったですね。今までの人生でサッカーが上手な人とは出会いましたが、当時の静岡FCのほとんどの選手が、元Jリーガーばかりで自分との差に愕然としました。当然最初はベンチにすら入れません。みんなは午前練習、午後フリーでしたが、試合に出られない自分はひたすら毎日午前練習、午後自主練習の繰り返しでした。お金もなく生活も苦しかったので午後は働くことも考えたけど、ここで中途半端にやると結局、前には進めない。
だからサッカーだけに集中しようと思って。また寮生活でしたが5LDKに15人、6畳1部屋3人という環境での生活をしていました。布団をひいて荷物置いたらもう足の踏み場がない感じで。(笑)金もない、サッカーもうまく行かない。
だけどそんな時いつも自分を支えた言葉は両親の「中途半端はダメ」でした。
そして「本当にやりたい事」を見つけて挑戦しているんだから「負けたくない」。
しかし現実では足元の技術だけは認めてもらえても、走れない、当りは弱い、自分は早くみんなに追いつかないと。それだけを考えて無我夢中で走っていました。そんな中、少しずつですけど認めてもらえるようになり、試合にも出られるようになってきました。そしてシーズン途中からは気がつくとレギュラーになっていました。
全く肩書きのなかったこんな自分を、当時のピッコリ監督(元アビスパ福岡)は拾ってくれて試合に使ってくれました。元Jとか肩書きに関係なく自分を認めてもらい本当に感謝でした。この世界で初めて認められたような気がして本当に嬉しかったです。
2年連続、地域決勝に出場しましたが残念ながらあと一歩でJFLには昇格できませんでした。
当時、気の合う仲間も沢山いてすごく楽しかったけど自分の中で「環境を変えて自分自身を磨きたい。もっと上のカテゴリーで挑戦したい」と思い自ら静岡FCを退団しました。

*松本山雅に来たキッカケは?
実は静岡FCを退団する時にどうしても行きたいチームがありました。そんな時、たまたまチームメイトに「山雅っていうこれから立ち上げるチームのセレクションを一緒に受けない?」と聞かれて体を動かす程度の気持ちで受けたら合格(笑)になってしまいました。
ただ自分は次のチームを決めていましたので最初は山雅に行くつもりもなく断りましたが、当時の八木理事長、辛島監督から何度も電話を頂き、すごく熱心に誘って下さり心打たれ山雅の入団を決めました。

*松本山雅の第一印象は?
「あれっ」です(笑) 聞いていた話とは全く違っていました・・・騙された!!と思いましたね。(笑) 
静岡FCとは環境、練習、選手の意識いろいろな面で違いましたね。「もっと上へ」と思い自分は山雅に来たつもりがいきなり凹みました。

*松本山雅の5年間を振り返って
当時はなかなか試合にも勝てなく、サッカーがあまり楽しくなかった。「サッカー=楽しむ」が自分のモットーだったから毎日のように移籍を考えていました。
でもそれからヤハ、さんちゃん達が来てくれて試合に勝っていくようになり、最初はバラバラだった皆の意識も少しずつ高くなり、まとまりもでてきていいチームになっていきました。
そうしたらファンやサポーターもどんどん増えてきて、だんだん楽しくなってきました。それでこのチームで「上を目指したい」と思うようになったのが1年目でした。それから2年、3年と急激に山雅は変わった。強くなった。みんなから愛されるチームになった。
しかし、その背後にはチームを去っていく選手、スタッフがいました。出会いがあれば別れがある。チームが強くなる為には仕方がない事だけど辛い思いも沢山しました。正直自分は淋しかった。分っていたことだけど。でもこれが自分の目指す「プロの世界」。こんな経験をする度にいつか自分もこのチームを離れる時が来る。そう思うが故にこうして「松本でサッカーができる日々」に感謝ですね。
このチームでサッカーを続けていることが今まで一緒に頑張ってきた仲間への、またこんな自分を応援してきてくれた人達への恩返しになると思っています。何としてもこのチームで上のカテゴリーにいきたい、今は心からそう強く思っています。サッカーを続けていけば場所は違っても、チームは違っても共に汗を流し、共に同じ目標に向かって戦った同志にもグランドで再会できるから。

*今の松本山雅は?
気が着くといつのまにかベテランになっていた(笑)
経験は積み重ねていくが体の衰えは少しずつ感じていく。「いつまでサッカーができるだろう?」そんなふうに考える時もあります。
でも、だからこそ毎日を一日を一瞬を大切に「後悔」せず戦って行きたい。自分の夢はあくまでも「プロサッカー選手」だから。そこに辿り着くまでは挑戦していきます!!
今年も吉澤監督、そして新加入選手も合流し、また新しい戦いが始まっています。去年は試合には出場していましたが完全にレギュラーではなかった。
今年はまずレギュラーを目指す。「結果を出す=サッカー」と自分は思っているから。
またここ最近すごく思うことは今までは自分がサッカーをする事が楽しいし、自分の為だけにサッカーをしてきました。しかし今は自分がサッカーをする事でファンやサポーターが喜んで楽しんでもらえる。自分のプレーに一喜一憂してくれる。今まで自分の為だけにプレーしてきたサッカーが少しずつだけど人の為になってきている。なんかそんな大切な事に今になって少しずつ気がついてきました。だからこそまだサッカーをしたい!続けて行きたい!
ようやく芽生えた「プロ意識」ですかね(笑)

*サポーターに一言
毎年シーズン・オフになって悩む時があります。どうしよう?と。そんな時、真っ先に浮かぶ顔はサポーターです。応援してもらう。というよりは共に戦う!!  一緒に共に上を目指して頑張る! これが、僕が感じている山雅というこのチームのサポーターです。
だから今年こそ「ラストチャンス!!」
崖っぷちの気持ちで共にJFLへ行きましょう!!


背番号 8  小澤 選手と話して


ガンズインタビューをする前に小澤選手は私にこう言った。
「俺でいいんですか? 僕サッカーのエリートでもないし、有名な選手とか出会ってないし」と。しかしインタビューをしていくにつれて私は思った。
今から5年前、25歳で松本にきた小澤選手。いつのまにかチームで一番の古株になっていた。ここ松本で多くの「経験」をしてきたであろう。そんな修にしか分らない松本山雅がある。修にしか分らないサポーターがある。そして修にしか分らない大切な出会いがあると。たとえ有名な選手と出会ってないかもしれない。でもこの松本で多くの人に出会った。選手、スタッフ、サポーター、職場の人達、そんな人達との出会いが本当の宝物だと思う。
修を知る人たちは皆こう呼ぶ「松本の誇り」と。そして私達も修のスマイル、笑顔にどれだけ希望をもらっているか!!
「中途半端」だけは絶対しない修は必ず山雅にスマイルを与えてくれるだろう!! そして今年こそ、山雅を愛する全ての人達みんなで「スマイル」 
GO TO JFL!!

(文責:成田偉作)


小沢選手の写真3
背番号 8
小澤 修一(Shuichi Ozawa)
1979年8月29日生まれ(29歳)
MF 8/身長170cm・64kg/B型/右利き
神奈川県立旭高等学校→神奈川大学→静岡FC→松本山雅FC





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コラム : Gansインタビュー第8回〜中村隼人
投稿日時: 2007-11-22 20:20:00
コラム

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Gansインタビュー第8回
中村隼人〜松本の閃光〜

[閃光(せんこう):瞬間的に強烈な光を放つ]


「お疲れ様でーす!」松本の閃光がASP事務局にやってきた。第8回GANSインタビュー開始です。


中村選手の写真1* サッカーを始めたキッカケは?
父親が野球大好き人間でしたが、なぜか僕にサッカーボールを買ってくれて、なぜかサッカーボールと遊びながらサッカーをしていました。(笑)

* どんな少年でしたか?
とにかく、よく動いていました(笑)。止まる事がわからないくらいに元気でした。
自分のアピールポイント「スタミナ最強」はここからもう始まっていました。
いろいろな人が「おとなしい」と言うけど、自分は感情をうまく表現できないけど、僕の中には「内に熱いもの」があるんです!

* 小さいころの夢は?
「大工屋さん」
物を作るのが大好きでした。
あっ、あと絵を書くのも大好きですし、かなりうまいですよ、僕の絵!

* サッカー王国 静岡での小、中、高時代
小学2年生から、サッカーを始めました。
とにかく静岡では「サッカー=遊び」って感じで毎日が楽しい遊びでした。
とにかく、ひたすらボールを蹴っていましたね?。

中学生の頃、本格的にサッカーの<プロ>を意識しました。それは3年生の時に静岡県選抜に選ばれまして、当時は、現代表の鈴木啓太選手やJリーグで活躍している選手がたくさんいました。ここで初めて自分のサッカーが通用しないと実感しました。
でもここからある意味、サッカーへのプライドを持ちはじめます。
またある時、県選抜でオランダの名門「アヤックス」へ遠征に行きました。技術的にはそんなに差はなかったですが、「身体能力」はすごいものがありました。それよりも何かサッカーに対する強い気持ち、チームへの誇り、サッカーに対する「熱いもの」が全然違いました。今、振り返って思い出すと何か大切なものを学んだと思います。

高校はサッカーの特待生で藤枝明誠高校に入学しました。
「自分を必要としてくれている」と感じ、この高校に決めました。
サッカー王国静岡だけあって強豪ばかりでしたが、新人戦優勝、選手権県予選ベスト8とまずまずの成績を収めることができました。
この中学、高校生時代に今の自分のサッカースタイル的なものを作れたと思います。

* 大学時代
大学は静岡産業大学。当時静岡では一番強く、自分のこれからのサッカー人生にプラスだと思い、この大学に決めました。
4年間JFLでプレーができた事はすごくプラスでした。また日本代表、Jのチームとの試合も数多くあり本当にいい経験でした。1、2年生の時は試合にも出られて、それなりに点もとれていたし、満足いく結果でした。ところが3、4年生になると、Bチームへ落とされ、なかなか試合にも出られずに何か、だんだんとサッカーへ対する気持ちが薄れていく自分がいました。すごく「くやしい気持ち」もありましたが、なぜだか自分でもわかりませんが、サッカーへの情熱がだんだんと冷めてきて、次の人生も考えていた時期でもありました。

* 佐川急便中京へ就職
一応サッカー推薦で就職しました。一日仕事をして週2回サッカーという生活で、いわゆる「サラリーマン」でした。だからとくに「サッカー選手」という生活ではありませんでした。ある時、県リーグの試合があり、自分のアピールポイントである「スタミナ」や、まったく自分のサッカーができなくて、くやしくてたまりませんでした。
たまたま両親がその試合を見て父親から一言、
「隼人、今まで見た全ての試合の中で一番最悪だったな」
自分では、ろくに練習もせず、このような生活で「サッカー」を仕事のせいにしている自分がいました。悔しくて泣きました。
「本気でサッカーがしたい!」

小、中、高時代のサッカーが楽しくてしょうがない気持ち、あの時のサッカーへかける情熱がもう一度甦ってきました。それから週2回の練習後も毎日、自主練をかかすことなく本気でサッカーに打ち込み始めます。23歳の夏でした。

中村選手の写真3* 松本山雅に来た3年間
同じ就職先の知人から「松本山雅のセレクションを受けてみたら」と言われ静岡から初めて松本へ来ました。自分でホテルを予約し、夜、一人で松本城へ歩いて行きました。ふと空を見上げたら雪が降ってきました。「あ?松本さみ?」それが松本の第一印象でした。しかし、松本城であの夜空を見た事は今も鮮明に残っています。
なんか不思議な感覚でした。

セレクション当日の朝、特に緊張はなかったけれど、合格できました。
「松本山雅はこれから上を目指す」その気持ちが自分の志と同じであり、この松本山雅で一緒に上を目指したい、と思い入団を決めました。
僕は今年で松本山雅に入団して3年目になります。今は選手、スタッフ、サポーター、ファン全てが団結しJFL目指してみんなで盛り上がっています。

しかし1年目はそうではありませんでした。ある意味チーム内でもサッカーに対する「意識の差」とかがあり大変な時期でありました。でもそんな状況でも同じ志を持つ仲間と北信越1部昇格を目指し、みんな一つになってがんばっていました。しかし、2年目では同じ仲間が辞めたり解雇になったりと、上を目指すサッカー選手として初めての経験をしました。
でもこの2年間がなければ今の山雅はありません。僕が言うのもなんですが同じ志を持って共に戦ってきた山雅の選手、スタッフ、の見えない努力があったからこそ今の山雅はあると思います。

* オレの気持ち
今はとにかく試合に出たいです!
口ではうまく言えないですけど、なんか納得できないんです。
この3年間で北信越2部から1部昇格。そして1部優勝と結果が出ているので、うれしい気持ちはあります。だけど正直素直に喜べない自分がいます。

8月の全社の決勝vsJAPANサッカーカレッジ戦でダメ押しゴールを決めた時の1点はただの1点ではなかった。正直本当に今までがすごくきつかったし、辛かった。自分なりには、頑張ってきたつもりだったから、あの1点につながったのかもしれない。
だけど、自分として、それはただの通過点にすぎない。
プロになったわけではなく、結果を出したわけでもないですから。
だから自分はただ、ただ上を目指すだけなんです。
やっぱり自分はサッカーが大好きだし、サッカーしかないから。
だからこそ自分がすごく、くやしいんです。
でも試合に出ている選手が一番努力しているんだ。評価は試合に出てなんぼですから。
だから僕は人の何倍も努力してもっと、もっと練習しないと。
自分の持ち味は、「泥臭くてもいい、人よりもたくさん走ってチームに貢献する。」
もう、腐っている場合ではないんです!!
妥協せず、自分に負けず、この3年間全てをぶつけます!!

また今まで共に戦ってきた友のために、今山雅で活かされている自分が、結果を残す為にいるから、どんな状況でも、たとえケガをしても足を折っても、結果にこだわって戦いたい。今自分がこの山雅でサッカーができるのは多くの支えがあるからです。
家族、友人、そしてスタッフ、自分をこの3年間支えてくださっている方々の為にも
戦います。僕は絶対に腐りません。折れません。そんな自分の姿を見てください。

* サポーターに一言
今までのサッカー人生の中で一番熱いサポーターです。
なかなか試合にでれない自分にも全力で応援してくださり本当にありがとうございます。サポーターのこの3年間の陰の仕事があったからこそ今の山雅があります。
当時のティッシュ配り、ポスター張りは大変でしたよね?
まだだれも松本山雅を知らず、なかなかうまくいきませんでしたよね?
そんな時から「松本山雅」を応援してくださっているサポーターは本当に
「誇り」です。これからも熱い応援お願い致します。
どれだけ本当に励まされているか。感謝で一杯です。



背番号19 中村選手と話して


言葉ではうまく表現できないが「内に秘めた熱いハート」。
これがガンズインタビューをしながら受けた中村選手の率直な感想です。

3年目のシーズン。チームで小沢選手と共に一番の古株。中村選手の熱いハートに私はすごく感じるものがあった。なかなか試合に出られないくやしさ。もどかしさ。
しかし、決して腐らず、折れず、ありのままに、ただ上だけを見上げて向上している、中村選手。
私は中村選手と対談していくうちに「初心に戻ろう」と思った。
たしかに、今の山雅には勢いがあります。選手、スタッフ、サポーター、全ての人たちが団結し「JFL昇格」を目指し、がんばっています。
しかし、今、この時だからこそ、もう一度初心に立ち返って、原点に立ち返って新しい気持ちになって戦っていきたい。

ガンズインタビューをする前に中村選手がこう言いました。
「成田さん、おれの全てをぶつけます。どんなに不細工でもかまいません。人がどう思おうが構いません。今のおれの全てを、この3年間を知ってもらいたいんです」と。

「何か忘れていた一番大切な物」を教えてもらった。
そんなガンズインタビューであった。

3年前、初めて松本の地でみた、あの夜空は今の中村選手にどう映っているのだろう。

(文責:成田偉作)


中村選手の写真2
背番号 19
中村 隼人(Hayato Nakamura)
1981年4月8日生まれ(26歳)
MF 19/身長170cm・60kg/A型/右利き
藤枝明誠→静岡産業大学→佐川急便中京→松本山雅





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コラム : 寺尾和也コーチによるレスリングコラム(第2回)
投稿日時: 2007-7-14 17:08:32
コラム

月に2回、松本山雅FCユースアカデミーでレスリング教室を行っている寺尾和也コーチが、よりレスリングについて知ってもらいたいとスタートしたコラム。今回は第2回目です。





<第2回> 私とレスリング

2.ストーリー

 私のデビュー戦は、5月の東信大会でした。9ヶ月だけ柔道経験を持つ私は、デビュー戦が同期のみんなより少し早かったです。階級は50kg級に出場しました。当時は、出場階級より2?3kg多かったですが普通に練習すれば落ちました。
 デビュー戦では、準決勝で他校の先輩にフォール負けしてしまいましたが、敗者復活戦の3位決定戦では他校の同級生と対戦し、得意の投げから一気にフォールで勝ちました。それからの私は、なかなか結果が出ずサボりがちで辞めようとしました。しかし監督や親友に励まされ、辞めることなく活動できました。この出来事が今の私の人生を大きく変えたのです。
 2年生になり、後輩達が入部してきました。同じ階級にはキッズレスリングの経験者がいて、私は注目されなくなりました。監督は経験者重視で私は補員的立場になり、大会によって50kgと54kgを行ったり来たりしていたので、体重調整が大変でした。一度、計量時に700gオーバーで監督に怒られ「30分以内に落とせ!」と言われスウェットとウインドブレーカーを着込み走りに行きました。時間ギリギリに戻り再度計ったら、1.5kgも落ちてしまったこともありました。
 この年も全国高校総体や国民体育大会に無縁の年でした。しかし、個人戦で先輩達は優勝し、インターハイに出場しました。同級生3人で出場したことがかなり思い出になったようでした。私の学年も四人中二人が同級生でした。私もこの頃から四人で全国のマットに立ちたいと思うようになりました。その頃から朝のホームルームギリギリまで走ったり懸垂をしました。そして僕らの目標は秋の新人戦“学校対抗戦初制覇”に設定されました。日々の練習や県外遠征で私も徐々に力を付けたつもりでした。
  ?続く?





寺尾和也氏 プロフィール
生年月日  1972年8月9日
出身地   長野県小諸市
身長/体重 157cm/62kg
利き手   右(左構えも練習中)
血液型   B型
経歴    北佐久農業高校→華調理師専門学校→民間会社→北佐久農業高校職員→長野県レスリング協会
アピールポイント 松本地域で全国チャンピオンを排出したいです。
個人タイトル  平成2年  インターハイ出場(団体戦50kg級)
          平成10年 広島国体出場(フリースタイル52kg級)

現在、県内外の中高女子選手を中心に強化練習や強化合宿に参加しています。
山雅では月2回ユースアカデミーで基礎体力を中心に練習をしています。
出来ればチームを作って全国大会などに参加したいです。

コラム : Gansインタビュー第7回〜白尾秀人
投稿日時: 2007-5-21 23:26:47
コラム

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Gansインタビュー第7回
白尾秀人〜松本の島人(しまんちゅ)〜



「ちゃーす!」松本の島人(しまんちゅ)がASP事務局にやってきた。第7回GANSインタビュー開始です。

* サッカーを始めたキッカケは?
与論島では、サッカー、野球、剣道くらいしかクラブがなく、兄がサッカーをしていた事もあり、双子の弟と一緒にサッカー部にはいりました。

白尾選手の写真3
* どんな少年でしたか?
生まれが与論島(鹿児島県)なので、一言で言えば「島人(しまんちゅ)! !」ですね。子供の頃からサッカー一筋というわけではなく、釣りをしたり、秘密基地を作ったり、とにかく外で遊ぶことが大好きでした。島は何もないので仕方ないですけどね。今でも釣りは大好きですね、しかも一人が。僕ってこう見えて結構一人が好きなんですよ(笑)。

* 小さいころの夢は?
「ケーキ屋さん」。
自分で「ティラミス」を作って食べてましたから(笑)。本当に今でも甘いものが大好きでサッカー選手として困っています。ただ今でもその夢は捨ててないですよ!(笑)。だからサッカー選手という夢は全くありませんでした。

* 中学生時代は?
与論中学校では、現ガンバ大阪の遠藤保仁選手と試合をした時に「こんなにサッカーがうまい人がいるんだ。」とショックを受けました。パス、ドリブル、シュート全てがうますぎて、自分とは別世界だと思いサッカ?はひとまず置いて、吹奏楽部に入りました(笑)。サッカー以外にもいろいろな事を挑戦したいって気持ちもありましたし、一つ一つの楽器を弾けるようになっていく喜びを感じて、結構吹奏楽にはまってましたね。
だから僕って結構いろいろな事できるんですよ、って僕は出来る子アピールしちゃってますね(笑)。

* 高校から本格的にサッカーを?
はい。あっでも陸上も少し(笑)。与論高校2年の時、県の選抜に選ばれて海外遠征に行って、たまたま大会得点王になったんですよ! それが今でも忘れる事ができませんね。ある意味初めての経験でしたから。その時「サッカーを本格的にしたい。島を出て本格的にサッカーをしたい。」と、熱い思いが湧いてきました。それでたまたま親の都合もあり、国見高校(長崎県)へ編入しました。それが高校3年の時です。

* 名門 国見高校はどうでしたか?
一言で言うと「ツライ」ですね(笑)。6キロ走ってから練習が始まるし、とにかくサッカー漬けの毎日であり、毎日が戦いの場でした。ただ、サッカーだけではなく、人間としてのあり方、生き方を学びましたね。ある時こんな事がありました。夕方のミーティングで「朝練の時もっと気合を入れろ」と言ってました。見てもないのになぁ?と思ってましたが、ある日、通常朝6時からの練習だけど自分は朝5時から練習をしていると、小嶺先生が窓の端っこから覗いている姿を発見してびっくりしました。「誰よりも一番早くにグラウンドに来て、誰よりも一番遅く帰る」そういう小嶺先生の生き方が僕の恩師の姿ですね。
今でも自分の支えになっている先生の一言があります。「一番大事な時にシュートを決める選手、最後に必ず結果を残す選手は必ず私生活でも裏、表のない生き方をしている。」
この国見での一年間が僕の大きな成長でした。又人生の分岐点でもありました。本当にあの一年がなかったら今の自分はないですね。サッカー選手というのが目標でなく、現実的になりましたから! 実際に国士舘大学でユニバーシアード代表になり「世界一」になったし、ヴァンフォーレ甲府にも行きましたしね。この国見での一年は本当にかけがえのない日々でした。


* ヴァンフォーレ甲府について
一年目でいきなり試合にでましたね。ただそのあと右肩のケガから、左肩、膝の手術をしてからはひたすらケガとの戦いでした。本当に辛かったですね。やっぱり「選手は試合に出てなんぼ」ですからね。満足いくサッカーが出来ない日々でした。
ただ当時プレーしていた元日本代表の小倉隆史さんとの出会いで「FWは自分の形をつくれ」と教えて頂き、「ストライカーとしての自覚」を学べたことはすごく自分のプラスになりました!

* 松本山雅に来た理由
ヒロさんから「松本山雅で戦おう」と誘われました。
正直悩みましたね。ケガもありましたし、引退も考えてましたから。
ただ地元に戻って甘えたくなかったし、もう一度一人の選手として「0からのスタートで自分ができるか勝負したい!」と思い、その勝負をできるのが「山雅」だと思いました。

白尾選手の写真1
* 今の本音は?
選手はまず試合に出る事が全てです。だから正直今は辛い。本当に辛い。結果が出ないもどかしさと戦っています。ただ、今だから言えますが、昨シーズン終了後Vファーレン長崎にレンタル移籍しましたが、もしJFLに上がったら完全移籍も考えていました。だけど山雅のサポーター、選手、スタッフの顔が浮かんで来たんです。「ああ自分は山雅が好きだ!」そのことが頭から離れませんでしたね。そして「自分はまだ山雅に対してやり残した事がある」そう思い松本に戻ってきました。
でも今シーズンはなかなか試合に出れていません。新しい選手も加わりライバルも多いですし、日々戦いです。自分のイメージしているプレー、周りとうまくプレーできないもどかしさ。そんな時ある事を思い出した。それはユニバーシアード代表の時、ケガで出れない時も試合に出た時も、あの時は監督、選手、スタッフ全てが「一つ」でした。その結果「世界一」を成し遂げた、あの時のあの気持ち。それがこの山雅でもできるはずだ! 一つになってもっと戦えるはずだ! だからこそ試合に出て結果を残して戦いたい。今そう思ってがんばっています。選手として試合に出る事が全てだから。

* サポーターに一言
自分が生きてきた人生の中でここまで「信じられる仲間」がたくさんいる事は自分の誇りです。『マジで』山雅で試合できる喜びを感じてます。たとえ試合に出てない時でもコールしてくださる。それがどれだけの力と励ましを貰ってるか。
「何がいいか分からないんだけどなんか良いんです」大好きです!
とにかく「ありがとう」そして「こんな自分ですが応援よろしくお願い致します!」



背番号10 白尾選手と話して


昨シーズンのチーム得点王、白尾秀人は今苦しい状況が続いている。
正直、今この時期に白尾にGANSインタビューするのはどうかと思った。
ところが、実際の白尾はありのままに全てを、今の本音を語ってくれた。ストレスで出来た「蕁麻疹」「白髪」。「これ見て見て、ほら? やばくないですか?」。私はびっくりした。自分が持つ白尾選手の今までのイメージは「イケ面」「チャラ男」。失礼であるがそう思っていた。しかしここまでに無邪気で、純粋で、ありのままの人間だということを初めて知った。
山雅の中で「世界一」を経験している選手はおそらく白尾だけだろう。
そんな選手が「自分がくやしい」としきりにインタビューで言っていた時のあの表情を私は忘れられない。
まだ山雅にやり残した事がある。だから松本に帰ってきた二年目のシーズン。
「二年目のジンクス」を乗り越えて必ず「やり残した事」を達成してくれるであろう!そして必ず「結果」を残してくれるであろう、白尾 秀人は戦っている!
早く今シーズンが終わった時の【松本の島人】の笑顔が見たい!
私はそう思った。

(文責:成田偉作)

白尾選手の写真2
白尾 秀人(SHIRAO HIDEHITO)
鹿児島県与論島出身 1980年9月30日生まれ 26歳
FW 背番号10 175cm/72kg A型 右利き
与論高→国見高→国士舘→ヴァンフォーレ甲府→松本山雅→Vファーレン長崎→松本山雅



         

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Gansインタビュー矢畑選手
Gansインタビュー中井選手
Gansインタビュー鏑木選手

コラム : 「RED RIBBON」×松本山雅
投稿日時: 2007-1-26 13:25:32
コラム

think about AIDS

平成18年11月28日(火)にSHIBUYA-AXで行われた世界エイズデーのイベント「RED RIBBON LIVE 2006」に土橋宏由樹選手が参加し、絢香さん、桜井和寿(Mr.Children)さんらとライブ・トークを通じてエイズの予防啓発を呼びかけました。
土橋選手のイベント参加は総合プロデュースを務められる山本シュウ氏との親交により実現したものです。
詳しい開催要項はこちらをご覧下さい。http://api-net.jfap.or.jp/htmls/frameset-2006live-2.html

このイベントをきっかけに、長野県は全国的にも高い増加率でHIV感染者が増えているということを知りました。つまりHIV、エイズが私たち長野県人にとって決して遠くの問題ではないということです。

私たち一人一人がHIV、エイズ予防の為に出来ることは何だろうと「考える。」それこそがまず初めに私たちのすべきことではないでしょうか。

当HPをご覧頂いた方が同時にHIV、エイズ問題を意識するきっかけになればと、「AIP-NET エイズ予防ネット」HPにリンクさせて頂くことになりました。
こちらには長野県内でエイズの検査・相談が受けられる窓口も紹介されています。http://api-net.jfap.or.jp/htmls/frameset-02.html

松本山雅フットボールクラブは今後もHIV、エイズについて真剣に考え続けて参ります。

「AIP-NET エイズ予防ネット」 http://api-net.jfap.or.jp/index.html

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